量刑の不均等、不統一と量刑の難しさ
     ==限界事例と量刑==
 
                2005/9/6加筆
                     大阪弁護士会所属
                           弁護士 五 右 衛 門
 
一 量刑要素と量刑の困難性
 
1 刑の量刑要素としては被告人の性格、年齢及び境遇、犯罪の軽重及び情状並びに犯罪 後の情況等があり、これらを総合して適正な量刑を追求することとなる。
 そして、刑罰の意味と機能、罪刑法定主義の原則等から、量刑要素の中心が、犯罪行為の内容と結果であることは間違いない。
 
2 どのような量刑が妥当なのかということについては刑罰の本質論も影響することから難しい問題ではある。
 神業を使うことのできない普通の人間が行う量刑は一見すると不均衡、不公平、極端に言えば裁判、裁判官によってバラバラと表現できるかもしれない。
 そこには、"平等"なんてことはあり得ない。
 やむを得ないのかもしれないものの、"量刑不当"を理由とする控訴審において、困難な量刑の当否を再検討し、より適切な量刑を追求していく必要がある。
 職権の独立を保証され、また他の類似事件の量刑との均衡等を追求するシステムのない現在の裁判官の量刑実務については、イ 全国的な求刑基準等を駆使する検察官の求刑の適正を追求するとともに、ロ 量刑不当を理由とする控訴審の判断等を通じて、より妥当な量刑の指標を求め続けていく必要がある。
 
二 量刑の実務
 
1 現実の実務を見てみると、一見、適正な量刑が行われているようにみえる。
 しかし、実刑か執行猶予か、また自由刑か罰金刑かというような限界事例について、裁判例を収集して検討してみると、正直、量刑はバラバラであり、量刑についての平等ないし均衡なんて絵空事のように思える。
 ある被告人について、自由刑を科するについて、懲役一年が妥当なのか、懲役一年二月が妥当なのか、又は一年六月が妥当なのかというようなことは神業を持ってしても判断などできるはずはない。適正という評価にはもともと幅があるからである。量的な差異についての適正、均衡の有無の判断は難しい。
 しかし、実刑か執行猶予か、また自由刑か罰金刑かというような質的な差異について、その適正、均衡の有無の判断は比較的容易かもしれない。
 その質的差異が認められる事案を検討してみると、量刑の不均衡が見えてくる。
 
2 量刑事情は各事件によりバラバラであり、もともと量刑の均衡など求めることは無理であるといってしまえばお終いではある。
 しかし、質的差異がある量刑が被告人の人生を決定的に左右し得る。
 そんな重要な質的差異が認められる量刑についても、実際上、実務はバラバラであると言って過言ではない。
 
3 現実の量刑作業で、裁判官の指標のひとつととなるのは検察官の求刑である。事案を検討し、検察官の求刑の当否を検討して、実際の量刑を導き出すという手法である。
 次に指標となり得るのは、当該量刑を行う裁判官の過去の量刑例である。類似事案における自らの量刑実務例との比較である。
 そして、自らの過去の量刑実務例の蓄積のなかで、個別の裁判官は、罪名、行為、そして結果等により、心の中に、あいまいかもしれないある種の量刑基準を持つに至る。
 さらに近時のような法定刑の変更など法改正が行われ、またそのような法改正を呼び起こす犯罪状況や社会情勢が上記のような量刑指標に変更を余儀なくさせていく。量刑指標の崩壊である。崩壊した量刑指標が、ある意味安定を取り戻すには時間が必要でもある。
 
4 このように考えてくると、量刑について、重大な点が見えてくる。
 そのひとつは、当然ではあるものの、検察官の求刑の重要性である。
 間違いなく裁判官の量刑に影響を与える指標である。社会秩序の維持と法秩序の維持に責任を持ち、他の国家機関等との連携も可能な行政官でもある検察官は可能な限り求刑の適正、そして均衡をも追求すべきである。
 もうひとつ見えてくるのは、検察官の求刑以外の、裁判官の量刑についての指標が著しく貧弱であるということである。
 
 適正な量刑を追求するならば上記のふたつの問題から目を逸らさず、これを直視すべきであるということとなる。
 しかし、現実の実務はこれらを必ずしも直視していない。
 検察の求刑は第一次的には公訴提起の段階で暫定的に決定され、公判結審時の求刑段階で適正な求刑に修正確定されることが予定されているにもかかわらず、公判担当の検察官らのなかには、なんらの修正の要否の検討や修正をせずに公訴提起時に暫定的に決定された求刑を棒読みする検察官がいる。そして、言い訳をする。量刑は裁判官がするものであり、検察官の求刑は単なる意見に過ぎないものであると。また、裁判官は検察官の求刑如何にかかわらず適正な量刑判断をするはずであると。
 ところが、量刑指標が貧弱な裁判官は、この不適正ないしいい加減かもしれない検察官の求刑を、最も影響力ある指標として使用して量刑判断をするのである。
 
5 検察官がその行う求刑が裁判官の量刑に決定的影響を持つ可能性が大であるにもかかわらず、その責任を果たさない検察官が存在すれば、その無責任な検察官の求刑を指標とせざるを得ない裁判官により量刑が行われているのである。
 
三 適正な量刑の追求
 
 量刑の適否は神業かもしれない。それは社会統制の道具であり、社会情勢、犯罪状況、そして国民感情により微妙な影響を受けるものであることから、量刑指標というようなものは元々策定不可能なものであるという議論もあり得る。しかし、それを理由として、また言い訳として適正な量刑の追求を怠ってはならないのである。
 法曹界において、現実、具体的な量刑の研究が乏しいのは、「量刑は神業である」という逃げ口上が蔓延しているからか、又は「量刑の持つ問題点から目をそらしている」ことが理由かもしれない。
 
 職権の独立を保証され、また他の類似事件の量刑との均衡等を追求するシステムのない現在の裁判官の量刑実務においては、イ 全国的な求刑基準等(実務的には、求刑基準は作成されている部分もあるが、必ずしもない、とも言われている)を駆使することが可能な検察官の求刑の適正を追求するとともに、ロ 量刑不当を理由とする控訴審の判断等を通じて、より妥当な量刑の指標を日々求め続けていく必要があるのである。
 
蛇足−量刑指標
 
・ 死刑の選択基準
・ 軽罪の場合おけるイチロクサンの量刑指標
・ 道路交通法違反、業務上過失傷害事件における検察庁の求刑基準
・ 家庭裁判所道路交通法違反保護処分事件おけるインテーク基準
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